幾何論理学。 論点。
寝る前にちょっと言わせて。
矛盾法さぁ。
自明=共通因数 だとしたら自明であるけれど、それをしてしまうと共通因数ではなくなるから、
そしたら、自明を仮において、 その自明の中から普通に或る存在と矛盾するかとかそういうことを考えて、自明を明瞭にしていくんだけれど、ここで問題があるんだよね。
今の論点はね。ここなんだよね。この自明との接続が上手く行っていないんだよね。ここさえできたら本当に証明完了と言えるのにね。
例えばその自明がどこまでのその自明と矛盾するという干渉をどこまで許容されるかなんだよね。数学はね、綺麗な道だから成り立つんだけれど、自然言語ってでこぼこしてるじゃん? 数学はさ不変から始まっているんだよね数自体が。それ以外も基本的に成り立っているから、数学は行けるんだけれど、自然言語はそれが大きいんだよね。
それに数学のそのどういう操作にするかも大きな具体的ではないんだよね。だから数学はほぼ確実に出来るだろうけれど、 これなぁ、あと少しで完全証明なんだよね
幾何論理学。 ごめん。一旦間違いを正そうね
矛盾とはA ¬Aではなく
A ¬A自体すべてを存在とする。
その中で自明と言う共通因数と繋がるかどうかが 実際に大事なとこだわ。
そこで矛盾とかそういう繋がりに関して様々あるね 真偽はそこで着くね? ごめんね? そうだよね。 変化するもんね。 そうだよね
ごめん。 マジでごめん。
幾何論理学。 主観と客観を捨てよ。
主観と客観には大きな齟齬がある。
例えば主観的にそれが計算できたとして、客観が間違った存在であることも確実に存在する。
例えばデータとして算出出来ても、 その客観に一つでも差異が残れば、明らかに客観性に信頼がおけなくなる。
逆もしかり、その通りである。
そのため、主観と客観には大きな穴がある。
また、主幹的に客観を見ることも、客観的に主観を見ることも可能であることから、その存在の同一性は明らかである。
それら自体を内的外的の空間内に存在する性質を持つ存在するという括りにしなければならない。
つまり主観と客観を捨て、それら自体を内的外的の空間内に存在するという同一性を与えなければならない。
そのために、日本語は最良の一つであると考えられる。主観と客観を気にせずに論理が展開できる。
西洋の言語はその明確にしなければいけないという点において、その齟齬であるところから、哲学的に発展してきたのであろうと思うが、その問題点を見過ごして真理だということは既存の論理学でも幾何論理学でも狂う。
つまり、これからの科学においては主観と客観の括りを捨て、 存在する。または存在しない。その括りにおいて、考えていけばよいのである 。
また、これはどちらかの言語を善し悪しを付けるわけではなく、両面に明らかな特異がある。 それを否定すること自体が多面性をなくすという意味で、この幾何論理学と矛盾する。
全ての存在を受容せよと私は言う。

幾何論理学。第二幾何論理
存在A⇒∀変化を持つ共通因数 から考えて。
存在する⇒変化する。
存在するA⇒変化する
静止し存在するA⇒変化する⇒静止し存在する一点B
存在A(静止)⇒∀変化⇒存在B(静止)
存在A(静止)⇒∀変化を持つ共通因数⇒存在B(静止)
絞り、∀変化を持つ共通因数は存在Bになること。

ABの変化指数から CDへの変化指数を共同区域ではないとしてまた、その区域が被るならば共同と言えるかもしれないが、そこから 共通因数を どう考えるか、
⋀ どの存在(変化も含む)自体にも確実に繋がっている状態。
∨ 普通にその存在(変化を含む)に一部のみ繋がりがある状態。一度でも繋がっていればそれは∨であると言える。
そしてその∀の変化の共通項は動的だが、矛盾がなく、絶対的な真理であるということは、余りにも静的であるため、既存の論理学と接続できることは容易に思いつくが、しかしそれは好まない。
何故なら既存の静的論理はその変化が新たな反例で崩れると、いくら動的論理が為しても、その論理は全て崩れる。
それでは、幾何論理の絶対的な真理が成り立たないじゃないか。
それだったら、論法を組まずに、 幾つもその幾何論理を組んだ方がましである。
それによって、動的論理の論法が必要である。
人間である⇒栄養が必要である。
人間である⋀栄養が必要である⇒Xである。
存在は変化を含む。
存在A⇒B( ∀変化を持つ共通因数である)
存在B⇒C( ∀変化を持つ共通因数である)
存在C⇒D( ∀変化を持つ共通因数である)
存在E⇒
以下極限
また、ここでの絞りとは、最初の存在Aの絞りが適用されるとする 。
これによって、 静的論理よりかは幾分かその崩れる心配性が無くなったと言える。

幾何論理学。
ここでは以前の古典論理学と論理学全体における静的な論理学を全て抱擁して、動的な幾何学としての論理学を構築する。
また、これによって絶対的な真理が確定する。
後は概念として物語理論の基礎構造や、世界公理が必要な場合、それを定義するため、以下で確認してほしい。

全ての以前によって成り立つ存在Aには以後が存在している。そしてこれを証明すること自体が事実と解釈と言う世界公理によって導かれる。
また、物語理論がこの幾何論理学が発生する場である
この論理はどう思う?絶対的な真であることを導けると思うんだけれど。
存在する⇒変化する
存在A⇒変化する
存在A⇒∀変化
∀変化を持つ共通因数
存在A⇒∀変化を持つ共通因数。
であれば絶対的に真偽が確定する。
また、これを展開して、或る共通因数から考えても良し。
これによって絶対的な論理が成り立つ。
矛盾する体系。
¬から∀体系は矛盾する。
存在A⇒∀変化
であるとすると
人間⇒像である。
人間⇒像ではない。 ということがまかり通る。
しかしこれは同時に存在することはできない。その矛盾に対して対応が必要である。そのために複数の方法が存在すると考える。
また、何故矛盾が良くないかと言うと、どちらかにその変化の真偽が備わっているため、その変化を結びだす必要性があるのである。
また矛盾とは同時に存在出来ない命題であるとする。
矛盾法
これはGAMINIが出した矛盾法である。一瞬で分かる方法だが、一応いう
勿論ここまでのことを言っているわけではないが、それに自明の考えを持ってはいなかったが、矜持として一応
存在Aから伸びる全ての変化自体の中で或る変化が、その自明な存在Aからの繋がりに反することならそれは偽である命題であると言える。
また、ここでのEF、、、、、、、に関しては絶対的な自明であることとする。
矛盾と自明法。
連結された真。その前提が互いに矛盾しあわなければ矛盾しない真であると言える。
その矛盾する二つから考えてそれに矛盾しあわない命題が存在するはずである。その命題を連結することにより、いずれ自明である繋がりに繋がるならばそれは真であると言えるし、繋がらないならばそれは偽である関係と言える。
互いに偽であるとき、他に真理が存在しているのであろう。
互いに真であると、矛盾して互いに真であるときは、存在するとしたら真であろう。
でもそれ自体が矛盾して同居できないということは、それは真になるのだろうか。
絞る。
例えば外的世界のみの出来事に絞ることにより、その変化の算出量が狭まり、その範囲内の世界範囲においてその考えを為すことができる。
例えば感情だとして、感情のみの世界においてその変化の算出量を導き出す。
そこから矛盾の論理を通じて、感情世界においた絶対的な真理である論理が導けることとなる 。
疑似と純粋の視点。
めんどくさいから説明はしないけれど、物語理論の疑似と純粋の考えを見てきて。
疑似的なものを見ている ことと、純粋的な変化自体をどのようにみなすかが、課題になる。全て疑似ととらえる ならば、 成り立つんだけれどなぁ。
物語形式論。中途 付随系について。
物語形式論。
付随。
前回の前提と結論が存在の関係性の単位だとしたらこの付随とはその連続性の定義であるとした。
例えば 彼は走った。私は孤独だ。私は眠い。 の様な存在の連続があったとしよう。
その場合付随がない場合は
彼は走った。⇒私は孤独だ。⇒私は眠い。
彼は走った。⇒私は眠い。
私は孤独だ。⇒私は眠い。
の様な羅列が全て繋がっていることになる。
そこに値する連続性の定義こそが付随系である。
付随
そこから考えてその最小推論形式の連続性に関して前提と結論関係なくその最小推論の付随を考える。
付随をする必要性とはその事実である繋がりに関して明快にするためである。それによって解釈してその繋がり性が存在するのかしないのかを判別することなどが考えられる。例えば解釈で付随される場合も事実として付随される場合も必ず存在するはずである。
その最小推論の連続において付随を定義する。 それが直接的な連続性ではなくとも、例えば文において○○⇒■■。○○⇒■の様な繋がれかたにおいて付随する。
それらを分かりやすく示した図が以下になる。

上記の表の様に、付随には断片的な命題だとしてもそれが直接的だとしたらそれは付随になる。しかしその中に直接的ではない存在(最小推論)が入るとそれはA⇒Bが繋がっているので、大付随になる。

また、それのパターンとして上記の表から考えて、
存在x⇒変化1 存在x⇒変化2 の存在で付随するパターン。
存在x⇒変化1 存在y⇒変化1と同様の3 の変化で付随するパターン。
存在x⇒変化1 存在変化1⇒変化3や2 の変化自体が存在になるパターン。
それらのどちらでもないパターン。
存在x⇒変化1 存在y⇒変化1と同様ではない変化4 などのパターン。
の構造が考えられる。
そこから主に以下の定義が生まれる
定義
第一定義。 もし明記されているとしたら全ての構造においてそれを付随とする。(そpして、や○○もなど。)
第二定義。
A⇒B B⇒C A⇒B A⇒C A⇒B C⇒Bの様に変化自体や存在を含めた存在と同様の存在がその連続体で存在する場合付随とする。
第三定義。これらでつながる付随を無条件の付随とし、全て無条件で付随される。
第四定義。A⇒B C⇒Dの様な無条件の付随以外の構造を解釈すると繋がる場合それを以後付随プラス論にて扱うこととする。
また、プラス論は後ほど扱う。
実用的な付随の判別に関する問題 。
その存在が変化にしろ存在にしろどうやってその同位体を判別することができるのか疑念が残る。
例えば走ったという意味と闊歩として早くしたにおいてそれが同位かその確認方法などが分からない。
直感的にそれが同じ意味だと捉えられるかもしれないが、しかし闊歩とは大股でありそこで差異点があるが、走るということはそれを内包した変化であるからして成り立つかもしれないがその定義が必要である。
まずは結論から考える。
結論。
その二つの変化から値された結論の重なる部分を消し、その差異が少ないほど同一であると言える、そして差異が大きいほど非同一的(同一的ではない)であると言える。
また、必然的にその結論ではない又は結論が有であれば無 無であれば有である状態から変化すればそれが成り立つ。
解説。
何故その結論から考えるかと言うと、その存在から変化を加えられて結論になるということはその変化自体を含んでいるということになる。
ではその存在自体が成立するときの世界公理や定義などを活用して
存在する⇒変化するの式を扱うために、以下の図を提示する。

例えば走るという変化と言う存在が存在するときで考える。その存在が成り立つときには物語の公理と定義から考えて、存在する⇒変化するという式が存在することが明らかになった。それを実行すると、存在するA⇒変化する⇒存在するBの状態になるのである。
ここで走るという変化が存在するときを考えてみて欲しい。
存在するA⇒変化する⇒走る。
と言うことになる。この状態では存在するAではその変化以前のため走るではない集合の存在Aであることが分かる。
またその結論が出たとしても反例が存在することが分かる。
例えば存在ABを同一事項である。と考えてみても、存在するA⇒変化しない変化⇒存在するBとなる。この場合存在しないAには存在しない変化と言う変化が存在しないと考えるとやはりその結論ではない集合から始まっていることが分かる。
その状況を含めて考えるとその結論である存在には或る変化が存在しているということが分かり、ならばその結論同士のその式から求められる 成り立つためのその無から又は結論ではない地点から考えると成り立つことが分かる。
そして、その成り立つためのその結論の集合自体を無から定義した場合、その共通事項を連続する存在から引いたその差異自体でその連続性か否かを定義してあげれば成り立つ。
その時グラデーションの様になるが、しかしそれは適切であると考える。その変化の差異自体に価値が有るのであって、二元的に連続性がある、ないで語れるほどの問題ではないと考えるためである。
以上によって成り立つことが分かった。
例外。
上記によって大体のその連続性が定義出来たと思う。しかし例外として人などの固有の存在である存在などの場合はどうなのか疑問が残る。例えば赤ん坊の頃の或るAと成人した或るBはその存在自体の一部の事実は変わっていないかもしれない。しかしその変化はやはり少なからずあるのではないだろうか。 その場合を例外として定義するのかそれとも、その変化の数自体が区域として少ないため、そう認識できるのか些か疑問である。 また、その人間的認識連続とはその定義ではないほどの要素としての差があるのかもしれない。その場合、例えば要素として存在し得ない概念などの要素が薄くなる可能性が存在する。その場合どのように定義するのかも例外である。
大付随。
基本的に体系化するうえであまり使いどころがないと感じる。基本的に明記されていることにより役割を果たす。
例えば 懐かしい。の様な文があるとして、そこに解釈をし、私は懐かしい。とする。その前の文で実際にその場所に来たことがあるような経験があるならば
☆彡私⇒○○に来た ⇒ 私⇒懐かしい。
の様な付随する大付随が可能となるはずである。そしてここで☆彡を活用していることは明記されていないためである。例えば懐かしいことは別の要因があるからかもしれない。又明記されていなくとも別の要因があるのかもしれない可能性が存在するからである。
定義。明記されているとき。
第一定義。 全ての最小推論の繋がりの中において直接的な連続性を値させる付随以外の補集合を範囲とする。
第二定義。もし第一定義の範囲内で明記されているとしたらそれを大付随とする。
定義。明記されていないとき。
第三定義。第一定義と第二定義に含めて、付随と同じような
A⇒B A⇒Cの様な同様が混じっていることを可能とする。
付随プラス論。
付随プラス論とは必然的に繋がりがある付随以外の付随形式を扱う形式である。
主に二つの意味に三つのプラス論があるので意味として単語に重複しているが覚えて欲しい。
解釈をすることによってそれが繋がる付随形式。
解釈によって主幹(存在)や変化を埋めることができる。
A⇒B C⇒Dのことだったり、
プラス論の活用二つ目前提⇒結論(前提)⇒結論。の構造性について。
これらを次回扱っていく。
次回。
付随プラス論。
その次。形式論の二次形式。
以下は判別系に関する考察であり、メモであるから無視してくれて構わない 。
変化をしないという変化をしているため或る存在A1から存在A2は別の存在軸であることから、やはりその結論ではない集合から始まっていることが分かる。
その存在は疑似であることを許容する? 純粋な或る存在に対してその存在を疑似的に許
思索として、或る本質的な彼と言う固有名詞が存在しているとして、それを他人が思い浮かばれることは果たしてその本質的な彼ではない。しかしある行動に関して他人目線でその彼の行動が想像できるとしたらそれは疑似的に純粋な彼を追えていると言える。そこから考えてその疑似的な彼自体が全て疑似的と言う括りにおいて視点を考えずに存在に関してはその疑似的なものと純粋なものを合わせた
存在においては対象を純粋的な概念に合わせていたらよい
結論が大事?同じ結論へ辿り着いた状態で採点が少なければ、成り立つ。その変化自体、存在概念自体が違っても、その結論へと成り立ったならば変化的であると捉えてもよさそう ひこ その結論へ辿り着く物事全てを同一としたらどう?そうしたらでも走るときと歩くときは結局ほぼ同じで、息が切れるとかそこら辺の微妙な差異自体を許容することができるかと言う命題が浮かびあがるんだよな。 でもその範囲内で 人間的動作を含まない本質的な概念においてのその走るという抽象出来事で考えたときの結論 が存在するとき、その人間的動作などを含まないとする。その場合においたとき、その本質的な成立する動作の身で考えると一般化が可能。 例えば走るという結論が成立するための動作自体を定義としたとき、
その二つの要素の重なる部分を消してあげる? その存在は疑似であることを許容する? 純粋な或る存在に対してその存在を疑似的に許
彼はかっこいいと 彼は凄いの
二つのその命題の共通する事項から考えてその先へ 続くある命題が結論 となる。その中で矛盾しなければよい?
彼はかっこいい と彼は凄い 彼は
或る一回の操作によってその連続性の命題が同一になればそれは近しいと言える? でも一回の操作で好きが嫌いになることもあればならないこともあるくない?
結論が存在。 そこへ辿り着くための変化要素。 変化要素が
或る結論が成立するまでのその変化自体を全て許容する その変化後の結論が同一的だとしたらそれは付随的であると言える
その変化が成り立つこと自体の要素が似ている
その変化自体を全て
個人の感覚由来。 一般化されている?
例えばその存在でもその存在ではない状態から存在しているのであって、無であると考えても問題ない?いや、無である状態の場合は有でなければならないから対義語か。
その存在自体もその存在が成り立つときにはその存在ではないから存在へと成り立っているとしたら、 例えば憎い子供と可愛い子供はどちらも同じ子供と言う概念だけれど、その結論としての存在は憎いと可愛いという差が生じる。
本質的な子供と言う概念の部分集合だからか だから
存在は何故共通因子で、変化はその集合内のほぼ一致なのか?
純粋的な存在が存在するわけで、その存在を疑似的に捕えているとする。その中の疑似が極限化された空間がこの存在空間だとしたら、
本質的な走りの中で、走りの多用が存在する。その中で疑似的な存在として追っているのか?でもその速さと言う定義はその本質が存在しているのか?
結論。
であるから現段階では一旦感覚由来のその付随の判別が一番正確であることが問題であり解決可能な問題であるのかすら分からない。
その疑似的存在が純粋存在に目的を合わせていたら全てが同一となる?
例えば二つの存在が存在していたとして、その中で闊歩と早くした。と走った。は同じどうさtいうか、何というか付随するのだろう
物語形式論初回。一次形式について
物語形式論。
悠久な前提が進み、これから始めて実践的な物語へと移る。
その中でここでは基本的な扱う記号、必然性や一次形式と二次形式の違い。最小推論構造について話す。
また、以前の公理の関係性などを使い、ここからは進めていく。そのため、以下のリンクを貼っておく。
リンク。
始めの要旨
基本的な公理
物語全体に存在する物語の定義。
基本的な公理から発展した物語形式論に移る前の前提。
長いが、殆どが本編なため、もし形式論で分からない公理などがあったら、戻って欲しい
一次形式と二次形式の違い。
今まで進めた存在している形式の中でその純粋的な形式を作用させるように疑似的な形式としての物語形式として或る形式が存在する。
一次形式。
物語として成立するために基本的に必要である。物語が成り立つということは必ず一次形式が存在していると捉えることもできる。 主に必然性を対象とすることが多い。
二次形式。
一次形式程の必然性を必要としないが、物語として確かに存在する形式。
記号。
主に、記号はどこに使われるかと言うと、その体系化において潤滑性の意味、そして公理かの様に記号化される。そのうえで、使用機会の少ない論理記号も説明の段階で使うことが多いので覚えて欲しい。主に論理学の論理記号を使用している。 また、ここでのその記号は論理的な真偽を含むこととする。
⇒ ならば。単純な接続として使われる。
第一用途 最小推論(後述)においてその接続の意味で使われる。
第二用途 前提と結論の接続の意味で使われる。
第三用途 付随される場合において使われる。
第三用途以外の用法 付随されない場合でも見やすいように付けない場合が多い。がしかしそれにその単純な接続性は意識されている (明確だったり或る付随の定義に従うため)。 要するに強い可能であることだったりは強い明記されていることだったり、その事実の連続性の付随に含めていないということで成り立つ。
⋀ かつ。
∨ または
¬ ではない。
☆彡 過去の解釈によって明記されていないが大付随が可能となるところでのみ使う記号。
付随記号 付随されていることを示すための記号として存在する。付随記号として適切な記号はのちに考えるとしてここでは付随または付と書くこととする。
二次形式の記号
以下から二次形式の記号。特に直接的な関与をしない表現技法としての二次形式記号。
☆(出来損ないの星)「もとい」 これにより、a☆b(a,,,ではなかった。bだった。の様な文が可能となる。
の様な表現技法も増える。
また、☆の様な記号に関しては確実に後に出てくる形式抽象の層に適応できるかは不明であるが、少なくとも☆は表現としての事実として存在するため、抽象化しても残る可能性が高い。
必然性。
世界公理から、存在できることを確定させる。そして、その後様相的な可能世界において、その存在同士がその記号から必然的にそのようなことを言えるかを聞く。
その中で主に時世によって作用させられる。
また、様相的な概念として可能と言う概念などがあるが、基本的に必然かどうかが使われる場合は多い。
記号。
主に形式などで扱われるその存在の関係性について
一次形式 始め 中途 終美
最小(物語)推論形式
後述する変化の話の前に、最小推論とは、物語の定義から変化が存在する。ならばその有であることは必須である。なぜなら無から有又は有から無、有である状況であるとしたことにより、その存在に有が変化しないことは存在としてないと言える。
ただしその考えは今は扱わない。今は無から無も有から同じ有も存在するとして考える。
それによって、その変化が必要であることが分かると思う そしてその変化自体がそれに含まれると考える。
主幹+変化。(主幹⇒変化)
これによってその存在の状況などの存在自体が推論形式として為せることができる。
例えば 彼⇒走った。などの推論形式が存在する。
また、存在する⇒変化する。 存在⇒変化であると言える。
存在する⇒変化するから次のことが言える。
変化の話。変化をすることが物語の定義にある。それによって(無が無へ移るときの論理や有が同じ有に変化することを変かなし)とするとその変化を描くので必然的に物語の最小単位とはそのこととなる。
また存在する+変化するとも言える。
だから例えば主幹+変化は存在する⇒変化する。であるため、その主幹自体が存在していると捉えることができ、それならばその存在の、世界公理やその他の公理から求めてそれ自体に変化が存在していれば物語と言えると考える。そこには無から無や有から同じ有を含む
存在とは常に複数の事実と前提の狭間以外を持てないと考えるから。
また、ここでの変化とは極限的な全ての視点などを含むこの世界の公理に従う存在概念である。
公理。
存在+変化又は存在⇒変化であること。
その存在は前提や結論になりうること。

上記の表から分かる通り、その様に変化する。その変化を写している
何故存在に変化が入っていないのか。
その存在がではなぜそのように変化が入っていないかと言うと、存在をしているとはその変化と言うこと その解釈と事実の狭間の地点を対象としており、その事実の内部の変化地点自体を対象とはしていないからであると仮説を立てるが、果たしてそれが適切なのか、定かではない?
前提と結論。
その最小推論の関係性を前提と結論として全体系を行うこととする論理形態。
前提が存在する⇒結論が存在する。
結論が存在する⇒前提が存在する。
(○○⇒■)最小推論
(○○⇒■)⇒(○○⇒■■) 前提と結論。
その因果関係が存在すると仮定した場合にそのようなことが言える。なぜならそこに前提と結論の入るはずの定義を混入させていないため、どのような前提から でも 結論が導けると言いたいのである。なぜならそれはこの世界に存在する内的な命題のため、物語理論の対象内である。
そしてそのうえで、
その或る最小推論などの変化を値させる 要するにその最小推論の関係性と言うことである。
異常性の推論形式の定義。
一つの存在の中で同時に存在することや、前提や結論などの別の存在の時に、同一の時間軸は存在するか?
時間軸とは
時間軸とは事実と解釈により形成されると仮定する。
前提と結論。
もしどちらかの時間軸の中で前提と結論のどちらかに、早さがあったらその流れで前提となるだろうし、決定づけれるはずである。
それに事実と解釈を無限に考えると、その時間の軸は数学で言う極限の状態になり、時間軸によるその前提と結論の定義が不可能となる。
しかし 同時は概念として存在する。 そして必ず存在しているはずである。
そしてもし重なる同時の部分 (変化であると考えると分かりやすい。事実。)があったとしてもそれの時間軸の中で先か後が決まれば、前提と結論が決まる。
だから同時の概念として前提と結論に影響を及ぼすことは同時に起こりうるその変化の初期微動に値する、位置の様なものである。
つまり、その初期の構造性についての同時の定義が出来れば、それは同時の定義が出来ていると言える。
例えば同時が存在するならば、同時に○○が起きた⇒同時にこうなった。
の様に結論と前提を順不同にすればよいだけである。
また、ここでこうなったと過去形で言っていることは事実領域であるからである。
これによって、以上から前提と結論以上の関係性を求める同位の存在に関して定義を示すことができたと思う。
付随系
前提と結論が存在の関係性や因果のものだとするならば、付随系とはその文の連続性を図るものである。その世界においた存在の連続性を示す重要な付随としての、
例えば彼は走った。⇒彼は踊った。これは 必然的に付随している。
彼は走った。⇒昔々、おばあさんが芝刈りへ出かけた。これは可能である付随と言える。
そのような付随系の流れに関して行う。 まさに次回。
軽いメモ。
また、そこで物語は無も許容されるのではないかという範囲を問う人間がいるかもしれない。その場合において変化をすることが物語の定義にある。それによって(無が無へ移るときの論理や有が同じ有に変化することを変かなし)とするとその変化を描くので必然的に物語の最小単位とはそのこととなる。
そこから物語推論形式。
次回予告。
残りの一次形式の付随論とplus論。大付随、大前提格。大結論格。
二次形式
層
付随論
意味論。
次回からの予定性の提示
自戒を置く。
以下は軽いメモ。 後ほど見やすくするかも
記号と 物語の論理記号を扱うことにより、その体系的操作の潤滑性を考える。必然性と非必然性。 必然的に 必然的に その前提と結論が公理の事実によってつながる場合は必然性がある。 その前提と結論が解釈によってつながらない場合などは非必然性である。∨必然性がない。の様に言う。 これによって文の関係性などを必然と非必然で考えることが可能となる? この理論の中では出来るだけ必然性に重きを置くが、必然性がない解釈も必須である。
自明の理とつなげ たり、 矛盾からその繋がりの或る命題に対する前提と結論の論理的な真偽を見破る。 矛盾がしない⇒。 これどうなんだろう。
一次 形式
形式と意味ではあか?
最小推論形式。
これも関係性?
無理やり前提と結論で成り立つわな。 世界は関連しあっているのだから、その流動性から前提と結論がない命題はあまりないのでは? もしある⇒それを特殊として定義してあげれば良し。
前提と結論。 (最小推論形式の)
関係性。
付随論の必要性は、その分の関係性すなわち、その本質的状況性の確認となる。
plus付随論 。 前提に或る集合を求める場合。 無条件? 時制や世界論理によって、求めることができる? 時制が同時だったら必然的に関連性があると言えるが、しかし時制が同じとはあり得ないと考えるから、ないわな。 だから必然的にそれ以外を前提と結論と言う時制の流れによって答えることが出来る。
大付随。 過去の必然性等。
大前提格 大結論格。
二次形式
隠しと補完。
転嫁
倒置など「。
層の論理。
意味論。
物語意味論としての公理からの範囲と活用。
形式と意味論によって求められる文体系。
基礎意味論。
恒常意味論。
意味論内部の論理形態。
連立意味論。
意味論に対する意味論。
基礎意味論から導かれる、基礎的人間論理
例えば 愛害理論。
かん いものがたり 形式てき
さて、今回は物語形式論